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大阪高等裁判所 昭和61年(行コ)18号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  控訴人

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人らの請求をいずれも棄却する。

3  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。

二  被控訴人ら

主文と同旨の判決

第二  当事者の主張

〈中略〉

二 控訴人の主張

1  労災保険法(労働者災害補償保険法)五七条二項及び労基法(労働基準法)一二九条

(一)  一般用語例としての「事故」

この点につき原判決は、「通常の用語例によれば、『事故』とは結果の発生を意味するものとして使用される」という。しかし、「事故」という用語は、原因と結果とが同時又は近接して生じる場合に、その両者を包摂する意味で用いられるのが最も一般的であり、原判決のようには必ずしもいい得ない。

(二)  労災保険法上の「事故」の用語例

労災保険法には、修飾語等により、「事故」という用語が、「労働者に発生した負傷、疾病等の原因となった業務上の事由である、或る事実」(以下単に「原因」という。)を意味するのか、「労働者に発生した負傷、疾病等の結果」(以下単に「結果」という。)を意味するのか必ずしも判然としない条文が存する(二五条一項二号、二八条一項四号前段、二九条一項七号など)。そして右二五条一項二号は、その意味を「原因」と解すべきである。右条項は、事業主が保険料を納付しない期間中の「事故」について保険給付を行った場合の規定であるが、この場合の「事故」を「結果」とすると、原因事由が生じたときには保険料を支払っていなかった事業主であっても、結果発生直前に支払うことにより同条項に定められた責任を回避することができることになるからである。また、右同様の例として昭和四〇年法律第一三〇号によって改正される前の一八条(以下「労災保険法旧一八条」という。)があるが、同条にいう「事故」を「結果」と解すると、保険加入者が保険料を納付していた期間中に原因を有する疾病等であっても、その発病時に保険料が納付されていなければ、保険給付を受けられないこととなり、その不当性は明らかであろう。

(三)  関連法令における経過規定

労災保険法及び労基法は、工場法等の旧法を統合し発展させた法であるから、労災保険法五七条二項以外にも関連法規の経過規定が存する。

(1) 健康保険法の一部を改正する等の法律の附則

健康保険法の一部を改正する等の法律(昭和二二年法律第四五号)の附則四条は、それのみをとりだしてみれば、「事故」が「結果」を意味するもののように読めるけれども、同附則三条及び五条はそのように読むことは困難であり、例えば、右三条は「この法律施行の日前における業務上の事由に因る疾病又は負傷」と規定しており、ここで「この法律施行の日前における」との文言はそれにつづく「業務上の事由」を修飾すると理解するのが読み方としては素直である。そうすると、労災保険法五七条二項も、右経過規定の存在を前提としたために、「法律施行前の業務上の事由」による「疾病又は負傷」を意味するものとして「法律施行前に発生した事故」と簡素化したものと解される。

(2) 労基法一二九条

また、原判決は、労基法一二九条を、「事故」が「結果」を意味することの根拠としてあげている。しかし、そのように解すると、労働者が旧法下で原因業務に従事し、新法下で発病した場合、使用者は労基法上の責任を負うことになるが、使用者に対し、責任が強化された労基法上の義務を負わせるためには明確な立法措置が必要であるし、また、労基法に基づく労災補償義務違反に対しては刑事罰が科されるのであるから、罪刑法定主義の大原則からしても、右解釈は採用できないというべきである。

(3) 労災保険法の改正時における経過規定

通勤災害に対する保険給付制度(昭和四八年法律第八五号)が創設された際の経過規定である附則二条は「この法律の施行の日以後に発生した事故に起因する新法第七条第一項第二号の通勤災害」と定めているが、この場合の「事故」は、文理上原因を指していることが明らかである。そして、労災保険法の経過規定を統一的、体系的に理解するとすれば、同法五七条二項の「事故」も右附則二条と同様に解釈すべきである。

(四)  「事故」の意義に関する行政解釈

原判決は、昭和二三年一月一三日付け基災発第五号通達を例にあげ、右通達では行政当局自らが旧法適用の有無を疾病等の結果の発生によって区別しており、行政庁の解釈自体確固として定着してきたものではないとしている。しかし、右通達の場合は、病原菌が労働者の身体にいつ侵入し、潜伏期間がどの程度であったのかが明確でない事例であり、そのため、便法として発病日をもって処理すべき旨を回答したに過ぎないものである。また、被控訴人らは、昭和二三年一〇月一四日付け基発第一五〇九号通達を援用し、労基法を遡及適用する例もあったと主張する。しかし、労基法に定められた年次有給休暇日数の算定方法に関する経過的措置については、労基法自身が立法的に解決していたのであり、右通達はその考え方を確認したものにすぎず、労基法を遡及適用したものではない。そして、本件のような場合の取扱いについては、昭和二二年九月一日の労災保険法施行後、特に昭和二五年(同年七月二八日付け基収第二〇八九号)から本件請求のなされた昭和五一年(同年一一月一二日付け基発第八二六号)を経て現在に至るまで行政庁の解釈は完全に定着している。このように長期間定着していた行政解釈は、一種の慣習法たる行政先例法としての意義を有するに至っているというべきであり、法的安定性や関係当事者の公平の見地から、裁判所も右解釈を十分に尊重すべきである。

2  労災保険法に基づく保険給付と労基法上の災害補償義務との関係

労災保険法に基づく保険制度は、労基法で法定された使用者の災害補償義務を、政府が保険給付の形で肩代わりすることにより被災労働者の迅速かつ確実な保護を図ることを主たる目的とするものである。労災保険法は今日まで多数回にわたり改正されてきたが、右の基本的性格は現在に至るも変更されてはいない。したがって、本件被災者らが労災保険法上の保険給付を受けるためには、使用者が本件被災者らに対して労基法上の災害補償義務を負担していなければならない。労災保険法が使用者の労基法上の災害補償義務を前提としなくなり、いわゆる社会保障法化したものとして被控訴人らが主張している各改正は、いずれも前述の基本的性格を変えるものではない。すなわち、雇用関係にない者の特別加入制度(昭和四〇年法律第一三〇号)及び通勤災害保護制度は労災保険の対象に関するものであり、障害補償等の年金化、スライド制及び給付最低額保障制度(昭和三五年法律第二九号、昭和四〇年法律第一三〇号)は保険給付の内容に関するものであって、本件のような保険給付義務の発生に関するものではない。

3  使用者の本件被災者らに対する労基法上の災害補償義務

使用者は、次に述べるとおり、本件被災者らに対して労基法上の災害補償義務を負ってはいないのであるから、その存在を前提とする労災保険給付もあり得ないことになる。

(一)  原裁判所の判断

原判決は、「工場法等旧法下においてもすでに補償義務を負い、労基法施行後も事業を継続させた使用者にとっては、同法の制定は、補償義務の内容を強化する結果をもたらしたにすぎず、右義務の本質に変化が加えられたわけではない。」とし、「そうだとすれば、旧法下において事業を営み、労基法施行後においても右事業を継続させた結果、同法で定める補償義務を負うに至った使用者については、旧法の廃止は補償義務の消滅をもたらすものではなく、右義務は労基法上の義務に包含されて存続しているというべきであり、右使用者にとっては、たとえ法形式上旧法の廃止と労基法の制定という形がとられたにせよ、その実質は旧法下の補償義務がその改正によって強化されたものにすぎないと解するのが相当である。」と続けている。しかし、右のような理由で、旧法下で労働者を業務に従事させたにすぎない使用者に対し、労基法上の災害補償義務を肯定することはできない。

(二)  使用者が旧法下で負っていた扶助義務の帰趨

確かに、労基法が旧法下の使用者の補償義務を拡充、統合し、その趣旨を引き継いだことは明らかである。しかし、そのことは、個々の使用者において旧法下で具体的に負っていた扶助義務が労基法下の補償義務として存続することまでも意味するものではない。なぜならば、労基法と工場法等の旧法との間には次に述べるとおりの重大な差異があり、使用者の災害補償責任は著しく加重されているからである。

(1) 旧法における扶助は労働者に対する恩恵的、救済的施策と考えられていたが、労基法では使用者の無過失賠償責任の理念が確立され、補償は労働者の権利であることが明確となった。

(2) 労基法の適用範囲がすべての産業にわたり、かつ、規模の大小を問わなくなった。

(3) 災害に対する補償内容が強化された。

(4) 労基法は使用者に対して補償の履行を強制するために罰則を設けているが(一一九条一号)、工場法では、同法施行令三三条で使用者が扶助義務を不正に免れた場合にのみ処罰の対象とされたにすぎない。

このように使用者の責任が著しく加重された労基法を遡及適用することは、罪刑法定主義の原則に照らして許されないものである。原判決はこの点を労基法一〇三条で説明しているが、同条を適用するためには使用者が旧法下において災害補償義務を負っていたことが前提となるところ、原判決によれば、使用者は旧法時においては未だ具体的補償義務を負担していないことにならざるを得ないのであるから、労基法一三〇条では前記の問題は解決しない。

(三)  使用者の扶助義務の消滅

原判決は、「旧法の廃止は補償義務の消滅をもたらすものではなく、右義務は労基法上の義務に包含されて存続しているというべきである。」という。しかし、工場法施行令一五条は、解雇後一年を経過したときは、労働者は扶助の請求をすることができない旨規定しているところ、これによれば、使用者の本件被災者らに対する旧法上の扶助義務は、遅くとも昭和二〇年一〇月の経過により消滅している。したがって、右義務が労基法上の災害補償義務に包含されて存続するということもあり得ないこととなる。

(四)  使用者の事業継続の意味

労基法上の使用者の災害補償義務は、使用者が労基法適用下で労働者を現実に使用したとの事実のみによって根拠づけられるのであり、したがって、使用者が労基法適用下で事業を継続していたこと自体は、その労働者に対する災害補償義務の存否の決定になんらの影響を及ぼさない。

4  労災保険法の適用と使用者の保険料納付義務

使用者が当該労働者との関係で労災保険法上の保険料納付義務さえも負担していない場合には、同法に基づく保険給付を肯定することはできない。

(一)  労災保険法と労働者災害扶助責任保険法その他の旧法との関係

労働者災害扶助責任保険法は、現実には、土木建築業、貨物取扱業等についてごく限られた範囲の労働災害を保険していたに過ぎず、しかも、労働者の扶助請求権は、右保険によって直接に保障されることはなく、別に労働者災害扶助法による行政監督と罰則による間接強制で担保されていたもので、公的業務災害保険としては本質的な欠陥を持っていた。また、昭和二二年法律第四五号によって改正される前の健康保険法(以下「旧健康保険法」という。)及び昭和一六年法律第六〇号として成立した労働者年金保険法(昭和一九年法律第二一号で厚生年金保険法と改称、以下「旧厚生年金保険法」という。)は、使用者も保険料を負担していたけれども、労働者の相互扶助を建前としていたため、保険給付についてその原因や責任はほとんど問題とされなかった。これに対して、労災保険法では保険料の大部分を使用者が負担しており、また、保険給付に際しては、災害の発生についての責任の所在が問題とされ、この点で労災保険法は現行健康保険法等のいわゆる社会保障法とは大きく異なっている。したがって、労災保険法と旧法(旧健康保険法及び旧厚生年金保険法)との継続性を肯定することは誤りであり、労災保険法は、業務上の災害に対する労働者の権利を明確にするとともに(同法一二条の八第二項)、労働者の相互扶助保険から脱却した新しい制度として創設されたものというべきである。

(二)  使用者の事業継続と労災保険法の適用

原判決は、「労災保険法の施行前後を通じて事業を継続させ、旧法下においても保険料の納付義務を負っていた使用者については(中略)労災保険法の制定はいわば使用者の負担すべき保険料の額を増額させたにすぎず、同法施行前後を通じて保険料の納付義務に変化はないというべきであり(中略)、してみると、使用者が労災保険法上の保険料納付義務を負っていない時期に業務に従事したことの一事をもって、被災労働者に保険給付を支給しない根拠とはなし得ないというべきである。」という。

しかし、右解釈は失当である。すなわち、本件被災者らに対しては旧健康保険法が適用されるところ、同法上の保険料は被保険者とその使用者とが二分の一あて負担するもので、労災保険法とは基本的に異なっており、したがって、被保険者でなくなった労働者については使用者の保険料納付義務も当然に消滅するのである。そして、旧健康保険法一三条によれば、被保険者とは「使用セラルル者」であり、退職者がこれに該当しないことは同法一八条に照らして明らかであるから、使用者の本件被災者らに関する旧健康保険法上の保険料納付義務は、遅くとも本件被災者らがすべて退職した昭和一九年一〇月には既に消滅しており、労災保険法施行後に継続して存在することはあり得ないのである。

三 控訴人の主張に対する被控訴人らの認否及び主張

1  労災保険法五七条二項及び労基法一二九条

(一)  「事故」の一般的用語例に関する控訴人の主張は争う。

(二)  労災保険法上の「事故」の用例

労災保険法旧一八条にいう「事故」も結果としての「疾病」と解して支障はない。原因事実と結果としての疾病の発病との間に長期の間隔が存する場合には、保険料の納付を怠った期間中に疾病が生じた場合には保険給付をしないことができる、との意味である。

(三)  関連法令における経過規定

労基法一二九条が「事故」を疾病等の結果を意味するものとして使用していることは、文理上明らかである。そして、労災保険法は労基法の精神を具体化し、実効性のあるものにするための法律であるから、各経過規定の解釈にあたっては両法を整合的に理解することが必要である。そうすると、労災保険法五七条二項の「事故」も結果である疾病等を意味するものとして理解すべきことになる。

(四)  「事故」の意義に関する行政解釈

控訴人のいう行政解釈の定着とは、行政庁が内部的に決定したことを対外的に長期間維持してきた、との事実を意味する以上のものではない。国民が右決定に参与したことはなく、その妥当性が裁判所によって確認されたわけでもない。そのような行政解釈が長期間継続されたからといって、これに裁判所や国民を拘束する効力を認める理由はない。

2  労災保険法に基づく保険給付と労基法上の災害補償義務との関係

労災保険法が、労基法上の使用者の災害補償義務を担保とするとの意義を有することは否定しえないとしても、現行労災保険法は、(一) 労基法では使用者に補償義務が発生しないとされている事故についても、その適用を拡大している。(二) 保険給付は、年金制の導入、金銭その他の特別給付、リハビリテーション制度など使用者の災害補償義務の範囲及び程度をはるかに越えている。(三) 保険給付は国の義務とされ、それに要する財源を事業主から徴収するか、国の一般財源に求めるかは政策的な問題となっている、等の内容を有しており、給付要件や内容は労基法上の使用者の補償義務には拘束されていない。したがって、使用者が災害補償義務を負担していない以上、労働者が労災保険法による保険給付を受けることはできない、との控訴人の主張は誤りである。

3  使用者の本件被災者らに対する労基法上の災害補償義務

(一)  戦後の各種法制の再編成

戦後の各種法制の再編成の中で鉱業法、工場法及び労働者災害扶助法以来の災害扶助は、その価額を一挙に倍増させて労基法第八章の「災害補償」に統合され、また、これらの法による使用者の義務を保険する各法も同様に統合され、「この制度の創設によりまして、現行の健康保険、厚生年金保険における業務上の保険給付及び労働者災害扶助責任保険をすべてこの制度に吸収致しまして、事業主の災害補償義務に基く責任を明かにすることとした」(第九二回帝国議会における河合厚生大臣の労災保険法案提案理由説明)のである。そして、統合の一環として、労働者災害扶助責任保険法による保険料を歳入とし、保険金を歳出としていた労働者災害扶助責任保険特別会計に属する権利義務は、労働者災害補償保険特別会計に承継された。

(二)  工場法と労基法並びに旧健康保険法及び旧厚生年金保険法と労災保険法との関係

これらの事実から明らかなとおり、工場法は労基法と、旧健康保険法及び旧厚生年金保険法は労災保険法と同一性を有するものであるところ、本件被災者らを使用していた株式会社山東化学工業所及び由良精工合資会社(後の本州化学工業株式会社)は労基法施行後もその事業を継続し、労基法及び労災保険法の適用を受けていたのであるから、右使用者らが工場法の規定によって負担した扶助義務は、労基法の施行に伴い同法上の補償義務として存続したものというべきである。

第三  証拠(省略)

理由

一  当裁判所も、被控訴人らの控訴人に対する本訴請求はいずれも認容すべきものと判断するが、その理由は次のとおり訂正、付加するほかは原判決理由説示と同一であるから、それを引用する。

1  原判決の訂正

(一)  原判決一五枚目表八行目の「証人」を「原審証人」に改める。

(二)  原判決一八枚目表末行の「亡神谷博」の後に「及び亡田和徳次郎」を加え、同行の「同人」を「亡神谷」に改め、同裏一行目の「一月八日」の後に「に、亡田和が昭和六一年五月一〇日にそれぞれ」を、同行の「同人」の後に「ら」を、同四行目冒頭の「妻」の前に「亡神谷については」を、同行の「原告神谷榮が」の後に「、亡田和についてはその長男である被控訴人田和一郎がそれぞれ」を、同六行目の「原告神谷榮」の後に「及び被控訴人田和一郎」を、同行の「亡神谷博」の後に「及び亡田和徳次郎」を各加える。

(三)  原判決一九枚目表五行目と六行目との間に次のとおり付加する。

「三 労基法及び労災保険法制定にいたるまでのわが国の労働者災害補償制度の概略

1  終戦直前まで

(一)  鉱業法及び工場法

わが国における先駆的な被災労働者保護法としては、明治三八年三月に公布され同年七月一日から施行された鉱業法があるが、これは、鉱業をその対象とするものであって、適用労働者は限られたものであった。労働災害に対する補償が一般的な形で制度化されたのは、明治四四年三月に公布され、大正五年九月一日に施行された工場法によってであり(以下、廃止法令の内容はすべて廃止直前のものである)、そこでは、事業の性質上労働者に危険・有害な業務を取り扱うか、常時一〇人以上の職工を使用する工場が対象とされ、同法及び同法施行令(大正五年勅令第一九三号)によれば、労働者が「業務上負傷シ、疾病ニ罹リ又ハ死亡シタル場合」には、使用者は次のとおりの扶助が義務づけられていた。

(1) 療養費の負担

(2) 休業扶助料 治癒まで賃金の一〇〇分の六〇

(3) 障害扶助料 障害程度により賃金二〇日分から六〇〇日分まで

(4) 遺族扶助料 賃金四〇〇日分

(二)  旧健康保険法

鉱業法及び工場法による補償は使用者の資力いかんにかかり、その確保が困難であったため、大正一一年四月に公布され昭和二年一月一日に全面施行された旧健康保険法により工場労働者等の療養の給付(六か月を限度とする。)及び傷病手当金の支給(原則として賃金の一〇〇分の六〇で、支給期間は六か月を限度とする。)が定められた。なお、右法律は業務上・業務外を問わない一般的な疾病保険であった。

(三)  労働者災害扶助法及び労働者災害扶助責任保険法

昭和六年四月に公布され、昭和七年一月一日に施行された労働者災害扶助法及びその施行細目を定めた労働者災害扶助法施行令(昭和六年勅令第二七六号)は、土木建築業等に従事する屋外労働者の労災事故につき、使用者に対して、本人又は遺族への扶助を義務づけた。そして、右法律と同時に公布施行された労働者災害扶助責任保険法は、その二条で「労働者災害扶助責任保険ニ於テハ労働者災害扶助法、工場法又ハ鉱業法ニ基ク扶助責任ヲ保険スルモノトス」と定めていたが、実際に保険されていたのは一部の土木工事等に従事する労働者又はその遺族に対する扶助料等であった(昭和六年勅令第二七七号労働者災害扶助責任保険法施行令一条及び二条)。

(四)  労働者年金保険法(旧厚生年金保険法)

労働者年金保険法は、旧健康保険法の適用工場の労働者らを被保険者として昭和一六年三月に公布、翌一七年に施行され、その後昭和一九年に厚生年金保険法と改称されたところ、右法律も給付内容は業務上・業務外によって区分されていたけれども、使用者の補償責任を保険するものではなく、基本的には旧健康保険法同様一般的保険制度であった。そして、業務上の被災者に対する保険給付の内容の概略は次のとおりであった。

(1) 障害年金 年金額は障害の程度に応じ、死亡まで賃金月額の五か月分から八か月分まで

(2) 障害手当金(一時金) 一時金は障害の程度に応じ、賃金月額の二か月分から二五か月分まで

(3) 遺族年金 年金額は賃金月額の五か月分、遺族年金の受給権者(旧厚生年金保険法二六条)がない場合にはその余の遺族に対して三六か月分の一時金

2  終戦後の法律の整備

(一)  労基法及び労災保険法の制定

終戦直前における労働者災害補償制度は右1のような状況にあったが、戦後労働者保護の基本法として昭和二二年四月に労基法が公布され(労災補償部分は昭和二二年九月一日施行)、鉱業法以来の各労働保護法の災害補償に関する規定はその中に統合された。そして、使用者の補償義務を保険していた労働者災害扶助責任保険法並びに旧健康保険法及び旧厚生年金保険法の業務上災害部分は、労基法に対応するものとしての労災保険法(昭和二二年九月一日施行)に一本化され、この労災保険事業を経営するために労働者災害補償保険特別会計法(昭和二二年法律第五一号、同年七月一日施行)が制定されるとともに労働者災害扶助責任保険特別会計は昭和二二年六月三〇日限り廃止されたが、廃止当時右会計に属していた積立金は労働者災害補償保険特別会計に組み入れられた(なお、原判決添付の別表(二)参照)。

(二)  災害補償及び保険給付の内容

労基法及び労災保険法施行当時、労基法に定める災害補償の内容は次のとおりであり、労災保険法上の保険給付の内容もほぼ同一であった(労基法七五条以下、労災保険法一二条以下、ただし制定当初のもの)。

(1) 療養補償

(2) 休業補償 療養期間中賃金の一〇〇分の六〇

(3) 障害補償 障害の程度に応じ賃金の五〇日分から一三四〇日分まで

(4) 遺族補償 賃金の一〇〇〇日分」

(四)  原判決一九枚目表六行目の「三 ところで」を「四 右のとおり」に、同二一枚目表二行目から三行目にかけての「結果の発生を意味するものとして使用される」を「原因と結果とが同時又は近接して生じる場合に、その両者を含めた意味で用いられるのが一般的である」に、同二一枚目裏七行目の「成起」を「生起」に、同二三枚目表末行冒頭の「四」を「五」に各改める。

(五)  原判決二五枚目表一〇行目の冒頭から二七枚目表末行末尾までを次のとおり改める。

「(一) 使用者の労基法上の災害補償義務の存否について

工場法に定められていた扶助義務と労基法上の補償義務の内容は前記のとおりであるが、右両者間の補償項目に差異はなく、そのうち療養補償と休業補償については、補償内容も同一である(以下特に断らない限り、労基法及び労災保険法の内容は、昭和二二年の法施行直後のものをいう。)。違いは障害補償と遺族補償の内容であって、労基法上の義務は工場法上のそれの二倍強となっている。しかし、右の程度の差異は工場法による扶助義務の内容と労基法による補償義務の内容との間に質的相違をもたらすものではなく、いわば労働者保護の程度に量的な差異があるにすぎず、両法間には連続性があるというべきである。そして、このような場合に、旧法時代に原因を有する疾病が新法施行の後に顕在化して発病した場合、労働者にいかなる権利を付与し、その反面使用者にどのような義務を負担させるかは、立法政策の問題であって、法理論上の原理原則は存しない。けだし、工場法及び労基法はいずれもいわゆる社会政策的立法であるから、立法当時の社会的な要請に応じ、その内容を自由に定めることが許されるものと解せられるからである。なお右の点については、犯罪の成否や犯罪に対する刑罰の内容を定めたものではないから、厳密な意味での罪刑法定主義の原則の適用の余地はないものというべきである(したがって、使用者に労基法上の義務を認めたとしても、そのことと労基法上の補償義務違反に対して労基法上の罰則が適用されるかどうかとは別問題である。)。

そこで、労基法においては右の点につきいかなる立法政策が採用されたとみるべきかであるが、労基法は右のような場合には、発病時点における労働者保護法である労基法を適用し、使用者にそこに定めた災害補償義務を負担させることとしたと解するの相当である。けだし、第一に、「事故」の意義についての説示において指摘したとおり(原判決一九枚目裏九行目冒頭から二〇枚目裏二行目末尾まで)、旧法時においては発病がないのであるから、その時点では使用者の工場法に基づく扶助義務の内容が全く不明であり、発病によって初めて使用者の負う義務内容が具体的に明らかになること、第二に、本件のような著しく長期間の潜伏期間を有する疾病(平均一八年、最長四五年)の場合には、原因となる業務が行われてから発病するまでの間に、社会的経済環境は、国家全体としても、使用者及び労働者の個人的レベルにおいても激変していることが予想され、そのような場合には、時代の要請に応じた定めがされているであろう発病時の法を適用するのが労働者及び使用者双方の合理的利益に合致すると考えられること、第三に、労基法は、日本国憲法下で労働者の権利を強化するために立法化されたものであるから、この立法により、使用者の災害補償義務が免責され、逆に労働者の権利が制限される結果となることは極めて不合理であること、第四に、労働者の疾病が「業務上の事由」に起因するものである以上、発病が遅れて新法が適用され、結果として使用者の補償責任が加重されたとしても、使用者はこれを受忍すべきであると考えられること、第五に、労基法上、本件のような場合の適用を否定すべき明文の根拠はなく、かえって、先に認定したとおり(原判決一九枚目表六行目冒頭から二三枚目表一〇行目末尾まで、前記1(四)の訂正後のものを含む。)、その経過規定は旧法の適用を否定していると解されること、以上の諸点を勘案すると、労基法は、本件のような場合にも発病時点を基準として適用され、本件被災者らの使用者らは、労基法上の災害補償義務を負担すべきものと解するのが相当である。

(二) 労災保険法適用の可否について

右のように、使用者に労基法上の補償義務を肯定すべきものとする以上、使用者の義務を保険することを主たる使命とする労災保険法の管掌者である政府は、使用者が労災保険法施行後も発病の原因となった事業を継続し、その結果保険関係が成立するに至った場合には、その時点で労働者は既に退職して事業に従事していなかったとしても、労働者に対して労災保険法上の保険給付義務を負担するものと解するのが相当である。けだし、第一に、労災保険法においては、一定の要件に適合する事業については、それが法施行前からのものである場合には、法施行と同時にその事業につき保険関係が成立し、この保険関係は適用事業について生じるものであって、保険加入者は使用者であり(六条)、個々の労働者との関係で発生するものではないこと、第二に、労災保険法一七条は、保険料の算定につき使用者が虚偽の告知をしたときは保険給付をしないことができると定め、一八条は、保険料の滞納期間中に発生した事故については保険給付をしないことができると規定していたが、第九二回帝国議会衆議院労災保険法案委員会議録第二回(昭和二二年三月二二日)によれば、右委員会において、政府委員は、右規定はごく例外的な場合にのみ適用を予定している旨説明していたし、その支給制限規定も昭和四〇年法律第一三〇号によって削除され、現在では保険料の支払の有無に関係なく保険給付がなされることになっており、保険料の支払と保険給付との関係は薄くなっていること、第三に、〈証拠〉によれば、労災保険法はその制定当初においても労基法に定める以上の労働者保護制度を設けることが可能とされていたことが認められるところ、その後の改正(例えば、昭和四八年法律第八五号による通勤災害に対する保険給付規定の新設)によって、現実にも労基法による使用者の災害補償義務を保険するという性格を多少弱めてきていること、第四に、保険関係の旧法すなわち旧健康保険法、旧厚生年金保険法及び労働者災害扶助責任保険法と労災保険法との連続性は、工場法と労基法との連続性ほどには明らかでないけれども、旧健康保険法と旧厚生年金保険法の各業務上の災害部分及び労働者災害扶助責任保険法が労災保険法として一本化されたことは明らかであり、前記のとおり、労働者災害扶助責任保険特別会計の積立金は労働者災害補償保険特別会計に組み入れられており、また、使用者の負担すべき保険料の額が増額し、保険給付の内容が全体として労働者保護に厚くなったほかは、制度的に旧法と新法間に大きな違いがないこと、以上の諸事情を考慮すると、工場法下での業務にその原因を有する疾病であるとしても、発病が労災保険法施行後であるならば、これを適用して労働者を救済するのが労災保険法の立法趣旨に忠実な解釈であると考えられる。」

(六)  原判決二七枚目裏一行目冒頭の「五」を「六」に、同二八枚目表五行目冒頭の「六」を「七」に、同行の「三」を「四」に、同裏六行目冒頭の「七」を「八」に、同二九枚目裏四行目の「八」を「九」に各改める。

2  控訴人の主張1について

(一)  労災保険法上の「事故」の用例について

控訴人は労災保険法には「事故」を「原因」を表す語として用いている場合が多いと主張し、その例として労災保険法旧一八条及び昭和四〇年法律第一三〇号によって新設された三〇条の四第一項二号(昭和四四年法律第八五号、昭和六一年法律第五九号で二五条一項二号となる。)をあげている。確かに、右各条文に用いられている「事故」は、労災保険制度の趣旨からすれば「原因」を意味するものとして理解するのが相当ではあろう。しかし、「結果」を表すと考える余地がないかというと必ずしもそうであるとはいえず、また、同一法令中における同一の語句であっても、その語句が用いられている前後関係等から条文ごとに異なる意味に解釈することが許されないわけではないことは原判決も指摘するとおりである(原判決二二枚目裏七行目以下)。

(二)  関連法令における経過規定について

(1) 健康保険法の一部を改正する法律の附則について

控訴人は、昭和二二年の健康保険法の一部を改正する等の法律附則三条及び五条を挙げ、疾病の原因となった事実が新法施行前に発生した場合には旧法が適用されるとの主張の根拠としている。

同法附則三条は旧健康保険法による保険給付につき「この法律施行の日前における業務上の事由に因る疾病又は負傷及びこれに因り発した疾病に関するものについては、なお従前の例による。」とし、同四条は旧厚生年金保険法による保険給付について「この法律施行の日において、現に支給を受ける権利のある者に支給するものについては、なお従前の例による。」としている。そして、経過規定につき法がこのように異なる文言を使用したのは、旧健康保険法が定める業務上の災害による保険給付が療養補償と休業補償であり、原因が発生すれば、通常直ちに保険給付の要否が判断できるものであるのに対し、旧厚生年金保険法が定める保険給付は、障害補償と遺族補償とであり、原因が発生した場合でも、保険給付の要否及び内容がすぐに明らかになることが少ないこともその一因となっていると考えられる。そうすると、本件のように、原因(ベンジジンへの曝露)と結果(発病)との間に長期間の間隔があり、労災保険法施行当時保険給付の要否及び内容が不明であるような場合には、結果発生時の法を適用するのが右経過規定の趣旨に沿うものというべきである。ところで、右附則四条の趣旨は、新法施行前に後遺障害等が発生し保険給付を受ける権利を有する場合には、旧法が適用されるというものであることは明らかであり、これを対比するならば、右附則五条が疾病等さえも発生していない場合についてまで規定していると解するのは妥当でなく、疾病等は旧法時に存することを前提としているとするのが相当である。そうすると、これらと並んで置かれている右附則三条の趣旨も、右同様に旧法施行前に疾病等が発症していることを前提としていると理解するのが合理的である。

(2) 労基法一二九条について

次に、控訴人は、原判決が労基法一二九条を「事故」が「結果」を意味すると理解すべきであることの根拠としたことを非難し、そのように解することは罪刑法定主義の原則に反するという。しかし、前述したとおり、使用者に労基法上の義務を負わせることと、その違反行為に対し刑事罰を科することが可能かどうかということとは別問題であり、また、旧法当時の使用者にいかなる労働者保護義務を課するかは立法政策の問題であることも前述したところである。したがって、控訴人の右主張は採用できない。

(3) 労災保険法の改正時における経過規定について

控訴人は昭和四八年法律第八五号の附則二条を援用する。たしかに、そこで用いられている「事故」は「結果」を指するものではなく、「原因」を意味していると解するのが相当である。しかし、経過規定は、法を制定改廃する場合に、その時点における社会的経済的環境その他の事情を立法者において総合的に判断し、合理的に決するものであるから、同一法中の経過規定であっても、長期間経過した後のものは、従前の経過規定の内容と同一に解すべき理由はない。そして、控訴人の援用する経過規定は昭和四八年における法改正に際してのものであるところ、当時においては、通勤災害を被った労働者が他の法律によってすでに保護されている場合もあり(例えば、昭和三〇年法律第九七号自動車損害賠償保障法、ただし、通勤災害が自動車事故に限られないことは当然である。)、終戦直後の労働者の保護環境とは著しく状況を異にするというべきである。したがって、前記改正法の経過規定が控訴人の主張するとおりであるとしても、労災保険法五七条二項の前述の解釈に影響を及ぼすものではない。

(三)  「事故」の意義に関する行政解釈について

控訴人は、労災保険法五七条二項にいう「事故」の意義につき、行政庁の解釈は一貫して定着しており、慣習法たる行政先例法としての意義を有するから、その解釈を裁判所も尊重すべきであるという。確かに、行政庁の取扱いが長期間にわたって定着してきた場合には、法的安定性の見地から裁判所もこれを尊重すべきことは当然であろう。しかしながら、それ以上に右事実が裁判所を拘束し、右解釈と異なる判断をすることが妨げられる理由はない。

(四)  本件疾病に旧法を適用した場合の結果

控訴人は、本件被災者らに対しては旧法が適用されると主張しているところ、右旧法とは、前記認定の労働者災害補償制度成立の経過からみて旧健康保険法及び労働者年金保険法(旧厚生年金保険法)を指するものと解される。ところが、労働者年金保険法については、同法の保険給付及び費用の負担に関する規定並びに七六条の規定以外の部分の施行日は昭和一七年一月一日であるが(昭和一六年勅令第一〇六二号)、右各規定の施行日は同年六月一日であるから(昭和一七年勅令第五四六号)、本件被災者のうち、小倉、谷口及び田和を除くその余の被災者らは、就労期間の関係で同法適用の余地はなく、また、右小倉らについても、同法に定める被保険者資格(二〇条)からすれば、同法による保険給付は受けられないことになる。また、旧健康保険法についても、労働者は退職の日の翌日に被保険者資格を失うのであるから(一八条)、退職後に発病した本件被災者らは、結局、旧健康保険法による保険給付も受けられない結果とならざるを得ない。そうすると、控訴人が主張するような法解釈を採用する限り、本件疾病のような長期間の潜伏期間を有するものについては、労働者は、それが労働者保護法が存する期間中の業務従事に起因するものであるにもかかわらず、結果的には法による保護を受け得ないこととなる場合が少なくないと考えられる。これは原判決も述べるとおり、「法の谷間」に放置する結果となるものであって、妥当性を欠くものといわざるを得ない。

3  控訴人の主張3について

控訴人の右主張に対する当裁判所の判断は前記「使用者の労基法上の災害補償義務の存否について」の項(一1(五)の(一))で述べたとおりである。なお、付言すると、使用者は、本件被災者らに対して旧法下における具体的扶助義務を負担してはいないから、旧法下における義務が労基法上の補償義務に同一性をもって引き継がれるということはない。使用者は、労基法施行下で旧法時と同様の事業を継続している限り、旧法時に業務に従事した労働者がその業務に起因して発病した時点で、その時の労働者保護法である労基法が適用される結果補償義務を負担するに至るのである。したがって、旧法に関する工場法施行令一五条(解雇後一年経過後の扶助の免脱)の適用が問題となる余地はないし、労基法が前記のような立法政策を採用していると解する限り、「労基法上の使用者の災害補償義務は、使用者が労基法適用下で労働者を現実に使用したとの事実のみによって根拠づけられている」ともいい得ないことになる。

4  控訴人の主張4について

この点に関する当裁判所の判断は、「労災保険法適用の可否について」の項(一1(五)の(二))で述べたとおりである。

5  被控訴人の主張2について

この点に関する当裁判所の判断は、前述したとおり(原判決二四枚目表一行目冒頭から二五枚目表四行目末尾まで)である。

二  以上のとおりであり、被控訴人らの請求をいずれも認容した原判決は相当であって、本件控訴は理由がないから、民訴法三八四条一項によりこれを棄却することとし、控訴費用の負担につき同法九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 日野原昌 裁判官 大須賀欣一 裁判官 加藤 誠)

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